開通までの道のり

1921年、昭和2年。やまなみハイウェイの原点となる構想をした実業家がいた。

■九州横断国際観光道路の構想
別府の観光開発に尽力した「油屋熊八」は、1863年(文久3年)愛媛県の
裕福な米問屋の長男として生まれる。

30歳の時に大阪に行って米相場で富を築き、「油屋将軍」と呼ばれるようになる。
しかし、日清戦争後は相場に失敗して無一文になる。
その後、アメリカへ渡り3年間を過ごし、帰国後は妻のいる別府へ移ることになる。
アメリカで学んだサービス精神を実践して亀の井旅館をスタートさせる。

続いてバス事業に進出し現在の亀の井バスを設立。
奇抜な発想の持ち主であった熊八は、日本で初めてとなる女性バスガイドの
定期観光運行を開始して話題となる。
また、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを掲げ
実際に富士山の山頂に標柱を立てたという話は有名である。

さらに昭和2年、別府・阿蘇・熊本・長崎を結ぶ道路と観光地作りを盛り込んだ
「九州大国立公園実現提唱」は現在の九州横断道路(通称:やまなみハイウェイ)
の原点となる構想である。

開通前の飯田高原付近

■道路建設着手から完成まで
その後の構想は、昭和6年に大分、熊本、長崎の知事にらよる九州横断国際遊覧大幹線の決定を行うが
なかなか手つかずとなった。しかし昭和23年、ようやく横断道路建設期成同盟が結成される。

昭和26年から 別府国際観光港から道路改修が行われた。昭和30年頃から積極的に国の機関に働きかけ
昭和38年に由布院町から水分峠間が完成、長者原から瀬の本間はトンネルを掘らずに工事を進めたため
4年の月日と20億円という多額な工事費がかかっている。

完成までの間、作業中の事故で殉職者を14名出している。山岳地域の難工事だったようだ。
現在、殉職者の慰霊碑が長者原の九重・飯田観光協会の前に建てられている。

■シーニックバイウェイ (Scenic Byway)
Scenic(景観のよい)、Byway(脇道、寄り道)といった意味の造語で1980年代後半にアメリカで提唱された。
道路から見える視点で、景観、自然、文化などによる観光や地域活性化などを目的とする取り組み。
やまなみハイウェイでも、この考え方が取り入れられている。

注意しながらドライブするとわかると思うが、1300m近くある標高にも関わらずトンネルがひとつもなく
コンスタントに草原、湖、高原など、あらゆる景色を観賞できるように作られている。
全国的にも人気の高い道路である所以がわかる。

そして、昭和39年10月30日。やまなみハイウェイの開通式が行われた。

 

文=安武秀年 写真提供:九重観光ホテル